見世物ではなく音楽を。
このコンセプトには完全同意だ。
ただ、その境界線は曖昧なもので、何をもって音楽と見世物を区切るかは人によって変わるものだ。
その境界線はどこにあるのか。
見世物と区別しなければならないほど、音楽にしか無い価値って何だろう。
見世物ではなく音楽を。
コンセプトレベルでは完全合意なのだけれど、具体例の話になると途端にわからなくなる。
この演奏は音楽か、見世物か。人によってその線引きは違う。
「これは見世物だ」と誰かが言っても、「うーん、そうかなあ」と首をひねることもある。
音楽か見世物か、という話はどんな楽器にも存在するようで、例えば三味線にも、派手さを追求したスタイルと、音楽を追求したスタイルとがあるそうだ。
ジャンジャカと派手に弾くスタイルは、格好良くて現在でも人気があるけれど、元々は物乞いが見世物として注目を集めるために始めたスタイルだとか。
もう一方のスタイルは、地味だけど一音一音をパッキリと弾いていく。
でも、どちらもありだと思うのだ。
物乞いには物乞いの理由があって、自分たちの音楽にコミットしていたはずだ。
音楽の価値は、人の文化としての価値である、とするなら、物乞いには物乞いの文化=音楽があったと言える。
それとも、オリジナルの物乞いは音楽だけれど、劣化版コピー=文化を置き忘れて上部の派手さだけコピーしたものは、見世物になってしまうのだろうか。
しかし文化という話を持ち出してしまうと、見世物だって、各プレイヤーが何かを背負って挑んでいる文化なわけで、音楽との区別の要因にはなり得ない。
音楽と見世物とを決定的に分ける価値は、どこにあるんだろう。