見世物ではなく音楽を(3)

読み物ではなく文学を。

文学に話を振って考えてみる。
この類の問いはどこの分野にでもあるらしい。
何を文学と定義するか、もちろん共通の答えはない。
けれど、この問いの先に、どんな魅力的なものを見つめているのかは、非常に大事。

自分の好きな作家・批評家の定義を混ぜ合わせた文学の価値は、「異物とのコミュニケーションを行う場を提供すること」。

星野智幸「夜は終わらない」を読んで、改めて文学の可能性に夢中になる。
有り得ないような不思議な話なのに、何故だか自分の近くにぐいぐい迫ってくる。
今を生きる人に徹底的に寄り添う生々しさと、それだからこそ立ち現れてくる普遍性。

文学の価値は、「異物とのコミュニケーションを行う場を提供すること」。
それによって、読む人の変化を肯定・祝福し、あるいはときに変化を強いたりする。
人間は変化せずには生きられないから、人生を通して文学に付き合う価値は、ここにあるんだと理解している。

文学は異物なのだ。
日常で触れ合う人たちと同じように、コミュニケーションを取るべき相手=異物。
読者にとってだけではなくて、おそらく作家自身にとっても同様に、自分の産み出した作品は異物である。
作家の中にあるものを単に発露したわけではなくて、外部にある何かを取り込もうと、そのコミュニケーションの結果として生まれたもの。

では音楽はどうか。
コミュニケーションというのは言葉の芸術である文学ならではの特徴なのだと思うけれど、一方で、音も人間の感情と直結する要素である。
感情のこもった演奏であるとか、魂を震わす音楽であるとか、音楽にもコミュニケーションの側面もあるのかもしれない。

だからと言って、単に感情の表現された音楽が理想かと言うと、そうではない。
文学だって、作者の感情が駄々漏れな作品は読むに耐えない。魅力的な作品は、単なる感情の羅列ではなくて、その感情を豊かなイメージに結びつけて渡してくれる。
音楽も恐らくそうで、イメージの連なりから出来ている。歌詞だけではない、音のイメージで。

まあ、文学と同じものを音楽に求めても仕方ないので、もうちょい考える必要はありそうだが。

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